【育児と夫婦】「ひとり時間」って相手にあげるもの?お互いが納得できる方法を考える

最近、何かのメディアでこんな言葉を目にしたんだよね。

「夫が妻に自由時間をあげることは、家事や育児の負担を軽減するだけでなく、妻の精神的なリフレッシュに直結します。」

…ん? 夫が妻に、自由時間を「あげる」…だと…?

読んだ瞬間、なんだか心の中で小さなモヤモヤが膨らんできたぞ。
みなさんはこの言葉、どう感じる?

今回は、夫婦における「ひとり時間」の捉え方と、お互いが納得できる「対等な関係性」について考えてみた。

夫婦は対等なはずなのに。なぜ「あげる」になるの?

核家族で育児をしていると、パパかママのどちらかが子どもの面倒を見ることになるから、自分の「ひとり時間」を確保するにはお互いの協力と調整が絶対に必要だよね。

そう、必要なのは「お互いが対等(フェア)に話し合うこと」のはず。

「夫が妻に時間を与えてあげて、妻はそれに感謝する」って、それってもう夫婦の対等な関係が崩れちゃってない?って思う。

じゃあ、なんで令和の時代になっても「夫が妻にあげる」なんて言い回しが使われるんだろう。

根強い「家父長制」の名残

古くから「世帯主である夫が家族を養い、妻は夫に従う」という構造があったから、「夫が与え、妻が受け取る」という上下関係のニュアンスが、無意識のうちに言葉に残っちゃっているんだと思う。

経済的な役割分担の慣習

「夫が外で稼ぎ、妻に生活費を渡す」という昭和的な構図が長く続いたことで、「渡す」「あげる」という動作が夫婦間の基本姿勢としてアップデートされないまま使われ続けているのかも。

日常にあふれる「~してあげる」の価値観

振り返ってみると、世の中にはこんな言葉があふれている。

  • 夫が妻を養って「あげる」
  • 夫が家事を手伝って「あげる」
  • 夫が妻を嫁にもらって「あげる」
  • 夫が妻を旅行に連れて行って「あげる」

夫は何かをして「あげる」存在で、妻は何かをして「もらう」存在…
…うーん、ものすごく感じる根強い昭和感。

でも、わたし感じるモヤモヤの正体は、まさにこの「古き良き(?)日本の慣習」から来ているんだと思う。

不満が溜まりやすい?自由時間の「許可制」

心理学や夫婦関係のカウンセリングでも、「自由時間を『相手から与えられる許可制』にしている夫婦ほど、不満が溜まりやすい」と言われているそう。
「あげる側」は「休ませてあげた」という恩着せがましさを抱きやすく、「もらう側」は「申し訳ない」「許可を取らなきゃいけない」という罪悪感を抱きやすい。
一方を「施す側」、もう一方を「受け取る側」にする言葉遣いそのものが、心の対等さを奪ってしまう原因になってしまうんだと思う。

「あげる」「もらう」を脱却して、フラットな関係を作る

このモヤモヤを晴らすには、やっぱり夫婦でしっかり向き合って、「我が家のあり方」をアップデートしていくしかない!

ひとり時間は「許可制」ではなく「シフト制(事前予約)」にする

「今週末、ひとり時間をもらってもいい?」とお伺いを立てる形(許可制)をやめて、「今週の土曜午後は私がリフレッシュ枠、日曜午後はパパのリフレッシュ枠」というように、カレンダー上でフラットに枠を確保する「シフト制」に。

「手伝う」「あげる」という言葉を使わない

言葉にだすと意識せざるを得ないよね。
「今日は子どもたちのお風呂入れてあげるよ」→「今日はわたしがお風呂担当だね!」
「終わってない家事手伝うよ」→「お互いの家事分担見直そうか!」
使う言葉を意識的に変えることで、お互いの当事者意識も変わるはず。

お互いの自由時間を「権利」として扱う

パパが趣味に出かけるのも、ママがカフェでぼーっとするのも、どちらも元気に生きていくために必要な「権利」。お互いに「いってらっしゃい! 楽しんできて!」と気持ちよく送り出し合える関係になれたらいいよね。

対等で心地よい関係は、自分たちの手で作っていく

「夫が妻に自由時間をあげる」という一言に感じたわたしのモヤモヤ。

それは、わたしが「夫婦は対等なパートナーシップでありたい」と強く願っているからこそ生まれた、健全な違和感なんだと思う。

昔からの慣習や世間の言い回しに流される必要は全くない。

夫婦で話し合いを重ねながら、自分たちにとって一番心地よいバランスと関係性を作っていけたらいいな。
そして、世の中全体もパートナーとの関係性を尊重できる社会にどんどん変わっていったら素敵だなと思った次第でございます。

では、よい週末を!

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